伝えたいのなら、減らすこと
何かを伝える時、
伝えたい想いが原動力になって、
説明を多くさせる。
言葉を多くさせる。
身振り手振りが多くさせる。
あらゆることが多くなっていく。
でも、多くさせることと、伝わることは
果たして繋がっているのだろうか。
説明が多くなる、言葉が多くなる、身振り手振りが多くなる。
そうすると、どこが大切かわからなくなる。
大切な説明も、
大切な言葉も、
大切な身振り手振りも、
多くなってしまった説明に、言葉に、身振り手振りに埋もれていく。
本当に伝えたいのなら、
伝えたい想いを原動力に、減らしていかなければならない。
説明を、言葉を、身振り手振りを。
その中で本当に減らすことができない
説明で、言葉で、身振り手振りで
伝えたいことを伝えるのだ。
社会復帰ってなに?
社会復帰ってなに?
なぜだろう?
私は深い疑問に捉われてしまう。
どうして健常者の生活に舞い戻らなければいけないのだろうか?競争原理に支配された健常者の社会で、そこで人と人の関係に耐えられなくなって病気になったのではなかったのだろうか?あるいは、競争原理に支配される健常者の自分に付き合いきれなくなって病気になったのではなかったのだろうか。そんな健常者の社会にもう一度舞い戻ることが社会復帰なのだろうか。そこには健常者の社会は正しくて、障がい者は欠落者だという評価があるような気がする。むしろ逆に、健常者の社会って、人間的にはすごく歪み切った社会なのではないだろうか。
べてるはそんな歪み切った社会への社会復帰を拒否して、健常者も障がい者も一緒になって社会復帰しようよ!と呼びかけている。その具体的なイメージが向谷地さんが言う、トータルな地域コミュニケーション・システムの確立である。
(P141 社会復帰って何だ? より引用)
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もどる必要はない。
合わせる必要はない。
自分の悩みや生きづらさを苦労に変えて、
自分が生きられる、自分が自分らしくあれる関係性を育んでいけばいい。
ひとりがその関係を広げていくことができれば。
基準と専門性
こういったルールがあるから、
これ以上はできて、これ以上はできません。
そうやって、決まりを基準に判断するなんて誰でもできる。
基準は本当は曖昧で、そこにゆとりをもたせる。
だから息苦しくならない。
そのゆとりある基準の中で、判断できることが専門性だという。
決まりを基準にして、できるできないを判断することはだれでもできる。
でも、その曖昧性な基準の中で、本当に何が大切で、何が適切なのかを見極める目こそ、専門性なのだろう。
(読書会にてシェアしてくださった話をきいて、心に残った内容を書きました。)
自分の悩みは誰の悩み?自分の不安は誰の不安?
自分の悩みは自分の悩みだと思ってしまう。
自分の不安は自分の不安だと思ってしまう。
そして、そんなことで悩んでしまう自分を
そんなことで不安になってしまう自分を責めてしまう。
もっと強くならないと、
もっとできるようにならないと。
そうやって自分自身を傷つけ、自分自身を責めてしまう。
でも、それは果たしてすべてが「自分」に紐づくものなのだろうか?
すべてがそうではないと思う。
きっと、この日本とか社会とかいう僕たちが共通に描いている概念が変わってしまえば、その悩みは悩みでなくなることだってあるし、不安が不安でなくなることだってある。
だから自分が悩んでも、自分が不安に思っても
すべてを自分で背負い切らなくていいのだ。
それはあくまで、今の共同の概念の中で生まれる悩みであり、不安なのだ。
だからあなたが弱いわけでもないし、
もっと強くなる必要はない。
一番大切なのは、そんな今の自分が生きやすい、
そんな自分が生きていける共通の概念(社会、世の中)をつくることだ。
そして新しい共通の概念(社会、世の中)は
そういう人からしかきっと作れないのだと思う。
未来を不安に思うことについて
自分の10年先を不安に思う、
自分の20年先を不安に思う。
そういうことはナンセンスだ。
今と同じ世界が10年先、20年先にあるわけがない。
世界は必ず変わっていく。
10年前の技術が今は通用しないように、
20年前の技術が今は通用しないように、
今の悩みもそのまま未来に通用するかといったら、
通用しないのだ。
だからこそ、今の視点から未来を悩む必要はあまりないのかもしれない。
問いがなければ
どれだけ話しても、相手の中に問いがなければ入らない。
そのためにできることを考える。そういったデザインは学びにとても重要なのだと思う。