考 現 学

〜目的なくただ気づいたことを書き続けるという営み〜 「誰もが簡単に書くことができる時代」だからこそ「書くことが開く可能性」を

通信製作がおくれている

通信の製作が遅れている。

インタビューさせていただく人の決定が遅かったり、色々な理由がある。

 

次回は、今月インタビューさせていただいた人の紹介でインタビューさせてもらえそうだ。

 

通信の製作は、思いのほか通信を書くことだけだなく、書くまでの中での学びもおおい。

 

人とのつながりのがどうやって生まれていくのか?つくっていくのか?という点でもとても勉強になる。

 

始めるときは、そんなことは考えてもいなかった。はじめるときは分からない学びが必ずある。

 

だから自分がやったら学びがありそうだと言えことは、とりあえずやってみるといいように思った。

予想をうわまわる仕事

人に何かを頼んだ時、
自分が想像していた以上のことをしてくれたら
また頼みたいなと思う。

それは仕事も同じであって、
いつも相手の想像を上回ることさえできればいいなと思う。

そしてそれが、
相手を意識しなくても、
今目の前にある仕事に全力で打ち込んでいることの
結果に過ぎないということを僕は望んでいるのかもしれない。

ひとりのきもち

満足な生活を送れない人がいることを、
貧困問題というかもしれない。

お年寄りがお年寄りを介護することを、
老老介護問題というかもしれない。

残業が多くて多くの人が疲れていることを、
残業問題というかもしれない。

1つの問題として、まとめることで問題は表面化するのかもしれない。

だけれども、その問題の中には
ひとりひとりの人間がいる。
そしてそのひとりひとりの「きもち」は、
同じ問題だからといって、同じではないのだ。

問題としてまとめ、表面化させることは、
ひとりひとりのきもちをまとめることではない。

その問題の中には、
ひとりひとりの異なるきもちがあることを、
忘れないでいたい。


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まなびおむすび 6月号
おむすびインタビューの取材をおえて

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農民芸術概論をよんで

永久の未完成これ完成である
理解を了(お)へばわれらは斯(かか)る論をも棄つる

 

農民芸術概論 より

 
宮沢賢治はどこまでも、わからない状態にい続けた人なのかもしれない。

理解を了(お)へばわれらは斯(かか)る論をも棄つる というのがすごい。

ほんとうのことは、ほんとうのことと言い切った時点で、
ほんとうのことではなくなる。

だからこそ、永久の未完成であり、
その完成へと向かうその道こそ、すでにもう完成なのである。

つまり完成の状態は、不安定で弱い。
わからない、できない状態こそ、完成であって、
わかろうと向かうこと、できるへ向かっていくことこそ、
完成なのである。

だからこそ、わかっているという自覚、できている自覚こそ僕たちは疑わなければならない。

レイヤー的自分思考

自分という存在は、どういう存在なのかと言葉にすることは難しい。

人は、共同レイヤー共有する中で自分を認識する。

高校の同級生の中の自分
大学の同級生の中の自分
仕事関係の中での自分

大きく言えば、日本で生きる自分、外国で生きる自分

人は共同のレイヤーの中に自分を見出す。
今の自分は一つのレイヤーの中での1部分的自分ともいえる。

自分はどんな人間なのか?ということを言葉にすることはできないけれど、
自分は今、どんなレイヤーの中に自分を置いて、
自分を生み出しているのか?ということに自覚的になることはできるだろう。

それができると、少し心に余裕が生まれると思うし、
1つの自分を傷つけなくても、その自分をも受けいれることができるような気がする。

自分の決め方

書きたいことがない

そうやって書いてみて思うことは、
実際に今日一日、この書くこと一度たりとも思い出さなかった。

書くと決めることの差異によって自分の中に浮かんでくる問いも異なる。

今日書かないといけない。なのか、今日は何を書こうか?

この二つはまったく違う。
この違いがどこから来るのか?というと、
きっと自分の決め方、決め具合から来るのだと思う。

事実を共有することが問いにつながる

行動をしたのか、しなかったのか?

この事実が分かるだけで、問いが生まれる。

行動をしている事実がわかったら、
行動をしてどう感じたのか? と問うことができる。

行動をしていなかったら、
いつ行動してみますか?
とか、行動するために何が大切だと思いますか?と問うことができる。

「問い」は相手の事実を把握することで生まれてくることがある。

とすると、相手のどんな事実に着目するか?ということで、
自分の問いはいくらでも生み出すことできる。

自己対話において、
自分自身の現状を事実ベースで把握するということの重要性は、
相手との対話においても同じことがいえるのだと感じた。